実戦問答No.26


人事考課の3つの目的〜同じ部下を預かって能力がのびましたか〜 
(2012.05.08)

人事考課の目的は何かと言うことが時に議論になる。私は3つあると思っている。

 

第一には、公正な昇給賞与などの配分を行うためにある。

 

公正というのは、客観的で公平な、と理解するのがふつうだろう。

 

人事考課が客観的で公平でなければならないというのは、今さら言うまでもないことだろう。ただ、1300年前に大宝律令ができて、日本で初めて人事考課が行われて以来、この原則は長い歴史を経てどれだけ浸透したのだろうか。

 

私は、人事考課の目的は、一層広くとらえるべきとは思っている。が、そのいちばん最初の入り口の客観性、公平性を徹底する難しさと言うものは、毎度何らかの活動のお手伝いをするたびに痛感する。少なくとも年功主義の時代と変わっていない。というよりかえって難しくなった。なぜなら年功主義の時代は、学歴と勤続年数を第一に尊重するという大原則があったから、それに従っていれば、会社自体が能力主義ではないと批判をされても、上司はルールを遵守したに過ぎず、それが不公平であるとそしられることはまずなかった。つまり、ようやく客観性と公平性の真の難しさが問われるようになった。

 

現在は、学歴や毛並みではなく、部下の能力や成果を、公正に見つめなければならない。これが実に難しい。公正であるということは、自分の都合や利害、好悪、経験的価値観に染まることなしに、部下の行動や業績を冷徹に、しかし人を育てたいという情熱を忘れずに観察すると言うことだ。現役の上司でありながらこの難しさを痛感していない人は、実際には人事考課で本来求められる上司の苦悩を経験していないのかも知れない。この辺は、いつもセミナーや研修で申し上げる点であり、短い文章に書きつくせるものではない。が、以下だけは指摘できる。真に公正な評価をしている上司ならば、いつも「自分は本当に公平な目で部下を見ているだろうか。かたよりが生じていないだろうか。」と自問自答をしている。

 

その正反対は、「おれは絶対に公平だ」などと言い張る人だ。こういう人がいちばんあぶない(別段人格を批評しているのではないから少々直截な表現も許されよう)。自分の主観のひずみ、つまりは評価上の癖がまったくない、水のように無色透明な人などは決していない。もちろんそうした主観は、その人のよき個性、お人柄にも通じているのだから、仕事の上では大いに活かせばよいので、マネジャーに透明人間になれとお勧めしたいわけではない。そんなマネジャーには、逆に何の魅力もない。

 

しかし、それを評価の時にいったん振り払わなければならない。これが、至難である。

 

そうしたひずみは、必ず無意識に現れる。人は誰しも放っておくと不公平になるのである。だからいつも自分の観点を振り返る「技術」を持つことが公平さの本質である。情念を叫ぶだけでは公平な結果というものは決して得られない(私がここでいう公平は、もちろん、能力業績に対して公平にという意味で、配分に差をつけるなと言う意味ではない)。その公平であるための「技術」をこれ以上詳述すると、長くなり過ぎるだろうからこの点はまたの機会に述べたいが、「技術」である以上、身につけ、維持するために、いつも鍛練しておく必要がある。

 

以上を必須の前提として、私は、人事考課の目的は、より前向きなものが、あと2段階あると思う。

 

まず、公正な評価であったとしても、それが適切に伝わっているかと言うことだ。被評価者である部下に十分に伝わっていなければ、何ら変化は起きない。

 

変化というのは、部下の行動の変化である。

  
私たちは、いったいどれほど切実に部下の行動の変化を望んでいるだろうか。社員の行動の変化を望まない経営者がいるだろうか。そして、人事考課の折ほど、そうした変化を求めるのに適切な機会が他にあるだろうか。
 
しかしそれは部下に適切に伝えられ、受け入れられない限り、変化は決して生じない。なんとももったいないことか。それだけ真剣に考え抜いた公正な人事考課なのである。密室や、柱の陰で行った評価がいくら正確だと、部下のいないところで主張しても、それだけでは何の値打ちももたらさない。 
 
より言うと、こうしたことが不得手な上司が、ろくに練習もトレーニングもせずに、不適切な伝え方をするとどうなってしまうだろうか。「公正」な評価だったはずなのに、むしろ大きなマイナスの変化が起きる。それは容易に想像しうるであろう。
 
この稿を読まれる方は、マネジャーが多いだろうから、ひょっとしたら自分が部下であった時のことをお忘れになっているかもしれない。少し思い出してほしい。もしも上司に、自分の勤務ぶりについて、ひどく不適切な態度、方法で評価を伝えられたとしよう。そのとき部下は何と思うだろうか。その時だけ面白くないと思うだけで済めばいい。が、済むはずがない。「課長は、私のことをよく見ていないし、わかっていない、今後もわかろうとしないだろう」と思う。当然続いて「この人の下でいくらがんばってもしかたがないや」と言うことになる。以後は、なるだけ手を抜いて表面づらの帳尻だけを合わせようとするだろう。むろん態度は無気力になる。持てる力を十全に発揮しようとは決して思わない。
 
これは何というロスだろうか。部下にとって、会社にとって、そして課長本人にとってこれほどの損失があるだろうか。こういう例は、世の中に何十万例も何百万例もあるかもしれない。こうしたことが世の中からなくなれば、GDPやGNPが1%くらいはすぐ上がりそうである。人事考課と人材の活性化に、どれほど深い関係があるかご理解頂けたろうか(上司が何であれ、自分は自分を磨くだけだ、つまり他人の影響で努力を惜しむようなことは決してしない、と覚悟が定まれば、真の自律を達した社員だが、そういう人は若手では、百人にひとりがよいところではないか。社員全員にそれを期待するのは現実的でない)。
 
ともあれ、評価を正確に伝え、合意を得る、納得させ、行動の変化を確認すると言うことは、ふつう、より難しい。私は、その種の場で、何百人何千人のマネジャーとじかに接してみて本当にそう思う。日頃からの上司部下の信頼関係構築がどれほど大切かを改めて深く気づかされる機会となる。評価を客観的かつ公平につけることがやさしくないのは上述の通りだが、それを適切に伝え納得させることは、そのまた幾倍も難しいのが普通である。だからと言ってこの道を避けているようでは、人材の活性化を志向している組織とは言えない。
 
以上の、つまりは評価の納得性と言うことは、成果主義が浸透しだした20年近く前から、つとに主張されるようになった。が、こうした面のケアがもはや必要ないと言う会社には、お目にかかったことはまずない。
 
次に、より進んで、人事考課は、部下の能力を引き出すためにある。
 
同じ部下をまる3年預かったとしよう。3年も見たのだから、評価がこの上なく正確になるのは当たり前である。別段自慢するようなことでもないだろう。
 
では何が問われるのか。「その部下は、あなたのもとにいて、3年分能力が伸びたのでしょうか」である。どうして世の中の人事考課表には、そうしたことが書いていないのだろうか。同じ部下を3年預かって、評価はことのほか正確になったが、能力は少しも伸びていないと言うことが、もしあるとしたら、これほど寂しい話があるだろうか。人事考課と言う上司の権能は、部下の能力を向上させるために用いてこそ真価を発揮する。
 
ただし、部下が成長できなかったとしたら、それが何もかも上司の責任だなどと言っているのではない。どうやってもうまくゆかないこともあれば、誰が上司であっても成長する部下だっている。3年も育たないとしたら、いろいろ原因があるだろうから、「それはきちんとつかめていますか、難しければ会社の側もお手伝いしましょうか」と言う意味である。上司の責任は、いつも部下の成長を願い、そうなるように環境を整えていたか、にある。
 
この点、短絡的な成果主義もまた困ったものである。「部下育成目標」と称して、この種のことをそれこそ4半期置きに「レビュー」するような目標管理システムを取る。これはほぼ徒労である。部下の育成ほどごく短期的で形式的な目標管理にそぐわないものはない。私たち上司ができるのは、部下が育つ環境条件を整えることと、見守ること、能力発揮の機会がやってくることを相当辛抱強く待つことだけなのである。
 
別な観点から言えば、上述のように、評価を適切に伝え、部下の行動の変化をいつも見守っている上司ならば、その累積がおのずから能力の伸長という結果をもたらすだろう。能力開発とは、行動変容の定着のことである。
マネジャーの仕事の醍醐味は、部下の能力を引き出して使いこなし、仕事の成果を温かい目で確認し、その部下の成長を見届けることである。自分の能力を引き出してくれる上司に心服しない部下はいない。人事考課の納得性と言うのは、つきつめればこの1点である。こうした関係をあらゆる境界面で連綿と築ける組織は強い。
 
私は以上のような意味で人事考課の目的は以下3点にあると思っている。
 
 ①公正な(客観的で公平な評価に基づく)配分
 ②適切な評価の伝達とその受入・納得による行動の変化
 ③部下の能力開発
 
②③は、何も人事考課のときに考えなくてもよいではないかと言われれば、理屈だけではそうかもしれない。しかし、それがあてはまるのは、常日頃から、そうしたことを意識し、かつ実現できている上司にとっての話である。年功主義の時代も今も、そう言う上司の方が常に少数派である。成果主義の嵐が通り過ぎた今の方が、何事もせちがらくなってむしろ状況はやや厳しいかも知れない。だから、人事考課と言う必ず定期的にやってくる場を契機とし、一年中組織の活性化、部下の活用のことを考えさせるのは、会社にも上司にも部下にも、たいへん有益なことなのである。もしも①の公正な配分のためだけでよいとしてしまうと、行き違いが生じれば、組織のパワーを著しく減退させてしまうのは上述の通りである。
 
公正と言うのは、自分が主張するものではなくて、利害当事者の相手が認めるものだろう。この場合はもちろん部下である。公正であることを部下に納得させるには、1年に1度、人事部で決めた面接を型通り行うことではとても足りない。それこそ、日々自分の重きとするところを部下に伝え、深い相互信頼を築いておかなければならない。
 
たとえば人事考課者研修のトレーニングとして、評価を伝える面接のロールプレイイングを行うとする。身構えてしまう人もいる。が、他方で「こういうのは、普段から、一杯飲んだときから、こんこんとやっているから、人事考課の最後のときにこうした形で話題にはならないのだけれどなあ・・・、ちょっとやりにくいよねえ・・・」などと裏腹な事を言いつつ、にやにやしながらぼやく人もいる。こういう人は、たいてい上記のような配慮の行き届いた上司である。ロールプレイを演じて頂いても、(日頃鍛えぬいているのだから当然だが)多くの場合おじょうずであり、他の方々のひとつのモデルとしてのお手本になってもらえばよい。
 
そのような日常のありようこそが、組織と職場のパワーを一層引き出し、上司のマネジメント能力を向上させる。私は人事考課力とマネジメント力は、ほぼ同じだといつも言うのだが、現象的にはこうした意味である(もちろんマネジャーに選ばれた以上、仕事はできると言う前提で)。
 
このような文脈を背景に置いて、私は人事考課者研修のお手伝いを頼まれたときには、集まったマネジャーの方々に最初にこう質問することが多い。
 
「さて、皆さん、ところで人事考課と言うのはいつ行うのですか。」変なことを質問する先生だなと言う顔をする方も少なくない。
長くなった。この続きは次の機会にまた述べたい。

 


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