月刊人材マネジメント連載記事その3
「横山太郎が語る現場のアクションラーニング」その3
〜アクションラーニングにはなぜ即効性があるか〜 (2011.06.03)
第3回 アクションラーニングにはなぜ速効性があるか
自己客観化と速効性
アクションラーニングになぜ速効性があるかと言えば、それは自分自身と向き合うからである。「自己客観化」である。これがなしえたら、人は判断が恐ろしく透明になり、実行への勇気がこみ上げるように湧出する。今までの自分ではとうてい視野が及び得なかった領域に明るい光が当たるようにして物事の輪郭がくっきりする。それゆえ迷いが去り、行動に踏み出す動機がみるみる高まる。「そう、私はこのようにしたかったのだ。」と言うのがこの時の典型的な思いである。よってさまざまな成果が速効的に現出する。
この自己客観化に至るまでが、日常にあってはどれほど難しいだろうか。少しお考え頂きたい。自分の性格、経験、情念、価値観などから逃れて、まっすぐ問題に取り組む、自分自身を客観的に見つめるなどと言うことが平生常時行いうるような自律を完成させた人は、めったにいるものではない。実際はそれ以前に仕事に追われ、自分をふり返ることすらままならないことが多いだろう。
こうした心境を自問自答で得ることは困難だから、仲間と集まってアクションラーニングをするのだ。自己客観化と言う言葉をあえてアクションラーニング・セッションでものものしく言うわけではないが、実質においてそれが全く問われないものは、何と名前を付けたとしてもアクションラーニングではない。自分自身が問われることなく重要な問題が解決されるとしたら、たぶん大した問題ではなかったのだろう。だから、表現を変えれば、自分とどれだけ深く向き合う場をつくりあげられるかが、アクションラーニングの成否を定める。
自己客観化を進めるためのアクションラーニングの諸原則
既にそのために、アクションラーニングには色々な原理原則が定めてある。煩瑣で細かいルールではなく、シンプルな原則であり、内容よりもその浸透の度合いが問題である。それはコーチの力量により大きく左右される。その第一は、切実な現実の問題を提示すること。第二に守秘義務と自由闊達。これらは前号で述べた。
次に共有、支援、対等の原理。アクションラーニングの討議が始まる前に、私がいちばん繰り返しお伝えするのはこの点である。共有等が損なわれれば人は自分とは向き合わない。せっかく自己開示して提示した切実な問題を、軽々しく批評されたと思って欲しい。「君に何がわかるのか」と言う他人への感情的反発を産むだけになってしまう。
問題保有者によってはペースの少しゆったりした人もいる。逆に力に自信があるメンバーは概して気が短い。放っておけば「おいおい、そんなことささいな事を悩んでいるのかい」と言う態度になりがちだ。人を見くだし、評価する雰囲気からは、共有は生まれない。すると自己客観化どころか他人への反発と自己の殻へのとじこもりと言う全く逆の作用を生じてしまう。こうした雰囲気が生じたら、コーチは必ず介入して、もう一度、対等、共有等の原則を皆で思い出すようにしなければならない。この介入が、技術的にはやさしくない。なぜなら言わば「注意」を受けるメンバーは、場の中できっといちばんキャリア、つまり能力の高い人であることが多い。へたな「注意」をすると反撃を食らうのはコーチ自身になるからだ。そうなると事態収拾は難しい。コーチはどのメンバーよりも能力抜きん出ている必要はないが、学びを共有するのだと言う使命感においてはるかに他メンバーを凌駕していなければ、こうした事態には対処できない。
もしある人が自分の能力に自信があるとして、他人の問題を聞いてつまらないと思ったり、自分の方がずっと重要な件に取り組んでいるなどと優越感を感じるとしたら、そのこと自体がとてもつまらないことである。同じ運命の基盤に乗った、組織の中にいる人どうしの討議なのである。そういう評価的な姿勢を続けていれば、いくら能力があっても誰も真のリーダーとは認めないだろう。アクションラーニングは、私は最終的にはリーダーシップ涵養の場と思っている。こうした人が、時間を経て、次第次第に、支援的となり真のリーダーシップを見出して行く情景を目にするほどすばらしいことはないし、そうなれば会社として大変な財産である。リーダーとは、人が認めて初めてリーダーたりうるのだ。逆に会社側から言えば、そうした人が自然に多く育つような場が、組織の中の随所にあるのが理想だ。アクションラーニングはその場にもっともふさわしい方法のひとつである。
見くだすとまでゆかなくとも、なかなか他人の真の苦衷を理解するのは簡単でない。人間は、ついつい自分の経験の尺度でのみ物事を測る。自分の過去の事例にあてはめ、その固定観念的な図式をなぞるような質問が増えると、共有感は損なわれる。過去はあくまで過去でしかないのだ。そんな時私はコーチとして「私たちは気持ちを真っ白にして彼の話を理解しようとしているでしょうか」などとよく問いかける。問題提示者の話に「わからん、わからん」とやたらと腕を組んで顔をしかめるメンバーもいるかもしれない。こういう人は少々がんこだとしても現実場面では親分肌で親切な人が少なくないのだが、この場合はそれが逆作用になる。そんな時にはコーチとしてこう言う。「わからん、じゃなくて、全身を鏡にして彼の言うことをわかろうと思いましょうよ」。
こうした問題の本質の共有が円滑に進まないときに(現実には少なくはないのだが)、コーチが手をこまねいて状況をなすがままにしておくと、よくてもせいぜい気まずい部類の普段の会議の延長にしかならない。ひどい時には他責と非難の応酬になり、つまり、研修としての効果はないと言うことになってしまう。コーチの技量がじかに問われると言ったのはこう言う場面のことである。
共有から開眼へ
適切に場が運営されれば、次第に誠実で真摯な、問題提示者を助けるための本質的質問の方が多くなる。「そうか、君はこんなに大変な問題を抱えていたのだね」とその場にいる全メンバーが、深く共有できる瞬間がやがてやってくるのだ。
ついには問題提示者の心境が、ポジティブさと苦しさが混沌とした状態になり、返答に詰まるような質問も出るだろう。セッションが始まったときとは、表情が一変している人も少なくない。しかし雰囲気は全く支援的であり産みの苦しみであることは本人にもわかっている。これは、アクションラーニングがその真価を発揮する場面についに到着した何よりの証拠である。だから、コーチはこの瞬間を、宝物のように大切にしなければならない。ここしか自分と向き合う瞬間は決して来ない。人は自分と向き合うとき、誰でも神々しいお顔になる。真実の自己と直面するときは、それぞれの個性が本当にくっきり現れたよいお顔になる。
こうした張りつめた雰囲気をゆるめようと、他のメンバーがより軽い質問をして割って入って来るかも知れない。が、ここはわざわざそうした雰囲気、場面をついに創出したのだ。そのような緩和質問に対しては、コーチは絶対に介入して良い意味の緊張を、本人の変化を見届けるまで維持し、空気を動かしてはならない。ここまでの30分1時間は、この数分のためにあったのだから。私は事前の説明では「そう言う時がやがて来たら沈黙を楽しんでくださいね」と、これもしつこく言っている。わざわざ仕事の手を止めて研修に来たのだ。5年10年、いや場合によって一生忘れない経験をしてもよいではないか。全員でその人をいたぶっているのではない。皆わが事のように思い、問題を解決し苦境を克服して欲しいから質問しているのである。それをついに問題提示者が真摯に受け止める。「私はもうわかった、ありがとう」と周囲に叫びたいような気持ちになる。これは大げさに言えば「開眼」である。
このとき実は、見ているメンバーからはうかがい知れないほど深く、問題提示者は自分の行くかた来しかたのありようをふり返っている。胸中が全く透明になってここちよい薫風が通りぬけてゆくような体感である。自分の事を外から眺めるような気持ちになる。この自己客観化は、悟りの境地とまでは言わないが、一度経験すると決して忘れられない深いふり返りである。これが今回のテーマの速効性に直結するのだ。
以上のような経緯の細部の描写は、とても紙数が足りないので、恐縮ながら拙著「リーダーの質問術17手」などをお読み頂きたい。
研修中の体験が速効性を支える
多くの場合当初の問題は、少し極端に言えば「上司が悪い、部下のせいだ、協力しない他部署がおかしい、景気が悪いのがいけない」と表現されている。この自分と向き合う自己客観化のプロセスを経ると、必ずと言ってよいほど、「問題の所在は自分の側にあった」と言う表現に変わるのである。「人のせいにしても無意味だ」「私の問題は私が手を汚さない限り、私がリスクを取らない限り決して解決しないのだ」と言った方がわかりやすいだろうか。どちらにしても、問題を自分の行動半径の中に納めない限り未来永劫に解決しないのである。この深いふり返りが、これまで取れなかった行動への強固な決心へと転化するのはもう時間の問題である。自分の手で問題が解決できるとわかったときに行動しない人はいない。「ではこの件、明日上司に申し上げます」「すぐにも部下とじっくり話し合ってみます」などと言う行動計画は別に珍しくはない。騎虎の勢いとか、兵は拙速を尊ぶなどと言うが、この場合は熟慮に速度が加わるのだから、成功確率が飛躍的に高まるのは当然である。だいたいにおいて「行動は遅いが、必ず慎重にリスクを回避しているので諸事成果があがっている」などと言う例はまず聞いたことがない。リスクを回避することと、速やかな行動は両立させて成果となるのだ。
そうして立てられたアクションプランゆえ、日常とは比較にならないくらい速効性が高いのである。実際そこまで深いふり返り、自己客観化を進めながら、会社に戻ってから何も着手実行しませんでしたと言うことはまず起きない。それでは今後仲間に合わせる顔もない。が、それよりも、自分自身が、考え抜いたのになお迷っていることの無益さを深く決心して研修から戻り、現実に臨むからである。ここが他のスキル向上型の研修と根本的に異なる点である。そして何より、自分のリスクテーキングとコミットメントにより成果を上げれば、それは真の成功体験となり、その人のマネジメント能力の大きな向上に通じる。こうなると、その人が既に以前のその人でないことが誰の目にも明らかになる。
そのように変化成長を遂げた人に、あとで、「どちらにしてもこうなったのですか」と聞いてみる。「そうです」と私は言われたことはまずない。「あの研修(アクションラーニング)がなかったら、迷ったままずっと行動が遅くなっていたでしょう」と言うお答えが常である。
だから、会社として、コーチとしては、どうしたらなるべく純粋にそうした場がつくれるかに意を注ぐのが何よりだ。アクションラーニングの進め方をむやみに定型化したり、評価的な成果管理を採り入れたりすると、受講者の意識は、自分自身ではなくて、そちらをなぞることに向かってしまい、自己客観化からは遠のく。たちまち効果半減である。自由、自律、そうした彼らへの信頼を付与することは、アクションラーニングにとって最も本質的な事柄である。