読書日誌4:「『戦う組織』の作り方」渡邊美樹著

(2011.08.01) 

著者は言うまでもなく居酒屋チェーン、学校、福祉施設、農業など経営するワタミグループの創業者である。私は渡邉氏が十数年前に、社長として給料袋に毎月入れていた手紙をまとめた最初の著書「社長が贈り続けた社員への手紙 (1998年)」を読んでからの氏のファンである。その後一層大きく成長した渡邉氏のテレビでの言動やより多くの著書を知るにつけ、「あの人の力量は、一企業グループのためではなく、国民全体の福祉の向上に用いて欲しいものだ」とつくづく思った。そうしたら、ご本人にもそうした動機がおありだったのか、ワタミの会長を辞して、ついに先の都知事選に立候補された。対立候補が石原慎太郎氏では相手が悪かったが、さてこの先、どんな道を歩まれるのだろうか。

■「血の通った機能体組織」 
都知事に出る2年前に、50才にもならない若さで、社長を退き会長になって、会社経営と言う意味では、一歩下がったところから後進を見守る意思を表明していた。この本はちょうどその前後に書いた、渡邉氏の実戦の経営組織論のエッセンスの集約である。
 
ワタミでは、「地球上で一番たくさんのありがとうを集めるグループになろう」と言う志を、採用から教育訓練までにおいて徹底的に刷り込む。組織とは「理念集団」なのだと言うのが氏の持論である。理念を実現するためには挑戦と変革あるのみである。つまりは毎日が戦いだ。表題のように、組織とは理念を実現する戦いのためにあると言うことになる。氏のたどってきた道からは、それ以外の組織などあり得ないのだろう。
 
だから「多様性」などと言う言葉は、氏の著書には出て来ない。「理念集団」にはそれに矛盾する言動が時に生じても、それをはじき出して行く自浄能力が働くと言う。ここまで来ると、仕事と自分とに一定の距離を置きたい人にはとても着いてゆけない。ワタミが、一般に厳しい会社であると言われれるのはこのせいだろう。が、このように凝集性の高い組織にしなければ、渡邉氏の業績もまたあり得なかった。
 
達成すべき目的がはっきりした組織を機能体と呼び、そうではなく、存在すること自体が目的となっている、地域コミュニティ、クラブやサークルのような集団は共同体と言われる。会社組織と言うのは、その成り立ちはどう考えても機能体であるべきなのだろう。が、あの堺屋太一氏は、かつてベストセラー「組織の盛衰」において、おうおうにして日本企業にあっては、機能体であるべき組織が、サークルのように共同体化してしまうと述べられた。競争相手との戦いに勝つことや顧客満足を高めることよりも、内部指向となり、いつのまにやら、外で戦う努力をするよりも、社内政治に明け暮れるような人達のための組織になってしまう例が多い、と言うわけだ。
 
本来の組織の機能を徹底して果たすよう歴史上誰よりも強く求めた日本人は、おそらく織田信長である。彼の眼中には、生身の人間である家臣達もただの機能としてしか映っていなかったかも知れない。私たちは、ふつう信長を英雄として礼賛する。事実その評価は妥当だろうが、その場合に、それとは別に、信長に仕えていた武将達の気持ちを、アクションラーニングセッションのように、もう少し共有する必要があるかも知れない。毎日が薄氷を踏む思い、と言うより白刃の上を渡る思いだったろう。そのくらい主君信長は怖かった。その怖さに較べれば、決死の覚悟で難敵に当たることなど、ひょっとしたらさほどでもなかったのかも知れない。英雄の下で働くと言うのはそう言うことなのだろう。だから織田軍団は強かった。
 
ところが、堺屋氏は言う。そのような純粋な機能体組織は、やがてメンバーが疲れ果ててしまい、日本にあっては長続きしないのだ、と。なるほど、信長のつくりあげた機能一辺倒の精強軍団組織も、疲れ果てた明智光秀がなかば自暴自棄になって謀叛を起こし、信長らしいその最期とともに消えうせてしまった。
 
さて横道が長くなったが、どうやら信長のことは、渡邉氏も尊敬しているような口吻を本書にて示す。渡邉氏の率いたワタミは、この文脈で見ると、「血の通った機能体組織」なのである。本書のどこの断面を切り出しても、渡邉氏の部下を思う熱い血潮がほとばしっている。較べる意味があるかどうかは別として、そこが信長と全く違う。その上で、純粋に人を能力で評価し、役割を与え処遇している。こちらは信長と同じ完全な実力主義だ。この情熱と冷徹の両立は、誠に非凡と言うしかない。だから、ワタミでは、人事に情実、社内政治が起こり得ないと言う。
 
純粋な能力主義にすると、「組織は人を食って成長してゆく」。渡邉氏のこの一句は警抜である。何しろワタミは急成長した組織だ。いっときはマネジャーが勤まった人でも、事業の規模が拡がると、とたんに通用しなくなると言うことが、ひじょうに多く起きた。そうした時に、渡邉氏が取った態度は、理にかなった上に、部下を慈しむ深い情義にあふれたものである。何しろ氏の後継社長になった人も、一時降格人事を受けているのだ。しかしその態度には、再挑戦して壁を克服することを真に期待する愛情があふれていた。事実、後継者はその期待に応え、もう一度はい上がってきた。それは鮮やか過ぎる例だろう。マネジメント能力がそのまま停滞した例も少なくない。それでも、縁あって同志となった人には、それにふさわしい活躍の場を一生懸命見つける。血が通っているのである。
 
このあたりを読んでいて、私は、井深大氏が書いたと言う、あのソニーの設立趣意書の5カ条目を思い出した。「・・・・・形式的職階制を避け、一切の秩序を実力本意、人格主義の上に置き、個人の技能を最大限に発揮せしむ」と書いてある。そう、人に上下がつくものは、実力と人格以外には何もないのだ。さらにその上で、社員各自の自己実現こそが大切だと言っている。60年以上前の貧しかった社会を背景にしながら、井深氏はそう喝破した。しかし、今のソニーが、残念ながらそのような会社とは誰にもあまり思えない。その理念が、何の関係もないはずの今のワタミに活きている。歴史とは不思議である。そして、創業期のソニーは技術者中心で社員数十名だから、形式的職階などなくてもよいが、4千名以上になったワタミには当然職階がいる。その規模となっても、昇格、降格が、これほど能力本位に行われる例はまず見たことがない。私が、人材評価のセミナーなどで、受講者にいつも問いかけることのひとつが、「皆さんの会社では、昇格、降格は、以前の人事制度の時より、実力本位にフレキシブルになりましたか」と言うことだ。今でも下を向いてしまう受講者の割合が多い。能力本位の人事は、言うは易く、行うはまことに難いのである(当ブログの「実戦問答9 昇格はフレキシブルになりましたか」参照)。


■早くそうした失敗の経験を積んで 
なぜまだ若く、経営者として脂がのりきっているのに、会長になって一歩退くのか、と言う問いには、自分の力が今こそ全盛期であるからと逆説に答える。百年続く企業とするためには、後進の人達に自分が後見できる間に経営の経験を積ませなければならないからだ、と続ける。この時点で政治に乗りだそうと思ってはいなかったかも知れないが、数十年先までの事業展開ビジョンを明確に描くことなどが、会長としての自分の役割になると述べる。ふつう創業社長にとっては、自分の会社はなまみの自分のからだと同体化しているはずだ。自分の人生のあかしであるはずだ。だからどんな意思決定にも必ず関与したいはずである。どうしてこのように自己客観化ができるのだろうか。彼だけは別あつらえの人間なのだろうか。
 
しかしそうでもないようだ。著者本人も、「社長ほどおもしろくてやりがいのある仕事はない」し、「今でも居酒屋の現場が大好きだから、入っていって部下を指導したい」のだそうだ。しかしそれをすることは、自分を継承する人々が、指導の経験を積む貴重な機会を奪ってしまうことになる。そんな自分本位なことでは百年続く企業とすることはできない。だから、「自分の宝物」を渡すような気持ちで見守り、口を出さないのだと言う。この自制心、克己心は常人のものではない。そしてあまたの企業家や創業者の善悪とりどりの晩節の先例に深く学んでいることが明らかである。
 
自分が会長となったあとは、すぐに自分の能力に代わりうるリーダーなどいないことは本人がいちばんよくわかっている。だから、経営判断を相互にチェックし合う集団指導体制を取るとしている。集団指導になれば意思決定が遅くなるマイナスはある。が、後進が経営に習熟できるメリットの方がずっと大きいと言う。もっと言えば、きっと経営判断を誤ることだって折々あるだろうが、早くそうした失敗の経験を積んで、経営者として成長していって欲しいと述べる。この大局観と部下への愛情には敬服するしかない。
 
私は仕事がら、人事評価制度を設計すると言う場面でいつも以下のような趣旨を述べている。「『自律人材』となるまでの習熟期間では『失敗する権利』を認めた方がよい。若手社員に、励みのために目標管理等をやるのが悪いとは言わないが、あまりがちがちに評価に結びつけない方がよい。そうでないと、ミスを恐れ、手がちぢこまって仕事をするようになってしまう。いったい失敗をしないで成長する人などいないし、1度も失敗をしないで来た人に、恐くて大事な仕事は預けられない。」先日も、あるセミナーでこの旨を述べたら、終了後、ある受講者がやってきて「この『失敗する権利』というのはいいですね。自分の会社に浸透させるのはなかなか難しいのですが・・・・」とおっしゃっていた。
 
私が言っているのは、ごく人事制度の話らしく、自律前の比較的若手社員の話だ。渡邉氏は、会社経営を継承させた最高幹部に「失敗する権利」を認めているのだ。何という度量か。

 ■戦う組織における部下の育て方

厳しい会社だが、渡邉氏の部下を見る目の温かさは格別である。本書は、具体的な部下育成の実践面でも、誰しも考えさせられる応用性がたいへん高い。本書は4章構成になっているが、半分以上のページを、部下の育て方(第4章)に割いており、一読者から見ると、この章がいちばん面白い。部下の育成に関しては、おそろしくたくさんの数の本が出版されているが、この90ページあまりの第4章より優れた実戦書を私は知らない。それは著者が「機微」と言うことを重視していることに集約されている。場面と相手と話の内容が異なれば(機微の「機」である)、上司が取るべき態度はすべて異ならなければならない(「微」である)と言うことを、豊富な経験を踏まえて実に鮮明に描いているからである。これは「戦う組織」とまでゆかなくても、おおかたの「諸事うまくやってゆきたい組織」にあっても、大変妥当性の高い内容である。
 
ほとんどのその種の本は、まずもって一般論どまりである。たとえば「部下を注意し、叱るときには、別室に呼んで他の人がいないときにしなさい」などと言う一般論はあまり役に立たないと私もかねがね思ってきた。が、この本でも、ほとんど同じ表現で渡邉氏ともあろう人が述べられているので、思わず笑ってしまった。少なくとも行動科学には、「状況理論」があって、時と所と相手が異なれば、上司の反応は異なるべきだと言う説は、ずいぶん前から確立している。だから、少し勉強熱心なマネジャーならこのことは知っている。しかし、その応用例を、ここまで活き活きと書いた例はまずない。そのくらい瞬時に「機微」にぴったり適合するのは難事だし、それが少しでもずれれば思ったように部下は育たないのだ。
 
部下を叱責する時には、ひとしずくも私怨をまじえず、部下の成長を願う愛情を持って行うことが大切だと言う。逆にそれに一点も曇りがないなら、時に鬼となって、時には部下全員の前で、烈火のように怒らなければならないこともあると言う。そのような上司の親心を部下がわかった時に、真の人間関係が形成される。こうした例がふんだんに述べられているので、部下の指導に悩むマネジャーにはぜひ一読をお薦めしたい。中でも126頁の、「自分が部下を愛していないのに、部下から自分が愛されるわけがないではないか」と言う一文は、強く読者の心を打つとともに、あるいはこの本の主題ではないかとも感じられる。
 
その渡邉氏ですら、抜擢人事では時に期待外れに終わって失敗したと言う。しかし「その理由もわかっている」。何とかこの部門を早く立ち上げたいなどと「自分の中に欲や焦りがある時に」判断を誤り失敗するのだと言う。この内省力の高さも読者としてうならされる。なにひとつ部下に帰責していない。私は、真の自問自答ができる人にはアクションラーニングは不要であると言ってきたが、まさしくその例である。

 

さて、ワタミをほぼ離れた渡邉氏は、今後どのような活躍を私たちに見せてくれるのだろうか。同じ日本人として、その有為な才能、人格を適切な場に用いていって欲しいと思う。

 

 


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