実戦問答No.29


人事考課における全社的絶対考課基準、相場観の重要性
  
 
(2012.10.07)

■全社的絶対考課基準とは


人事考課教育の目的は、全社的絶対考課基準の確立にある。ひらたく言うと、会社全体に共有された相場観である。もっと砕いて言えば、「当社の係長ならこのくらいはできている、当社の4等級社員ならこれくらいがふつうだ」と言う実質判断の共通基準である。つまりは、これが客観性、公平性の本質でもある。


人事考課において最も重要なことは、客観性と公平性だと言うことに異論を唱える人はまず少ないだろう。納得性と言うのがまだ残っているし、それが同じくらい重要なことは確かだ。が、それには、客観性、公平性が絶対の前提条件である。大事さに差はないとしても、客観性と公平性が先に問われるのである。


さてこういう本質的基準はいくら書いても文字に表しきれるものではないし、もし書けてもそれを印刷して配ったからと言って決して十分に浸透するものでもない。


多くの企業は、人事考課基準をなるべく客観的にするために精密に細かくつくりこみ、さらに公平に運用するためその定義の解釈を説明する。そこまではまあよいとしよう。しかしこうした文書主義的方法だけで終わりがちで、それでは最終的かつ本質的な客観性、公平性は構築されていない。


そうした書面主義の「教育」をいくら受けたとしても、そのあとで何らかのケーススタディを見たときに、考課者が20人も集まれば、どのような会社でも、同じ事例を同じ会社の管理職が読んでいるのに、評価結果は2段階や3段階、場合により4段階にも分かれるものだ。程度の問題もあるが、同じ行動を見たときに、ポジティブに見る人と、ネガティブに見る人が真っ向対立?することもある。これは放っておくのは少々問題だとわかる。


ケーススタディ事例が示された時、なぜ同じ会社の管理職なのに評価がまちまちになるのか。彼ら個々人の「相場観」が異なることがいちばん大きな原因である。相場観とは、「ウチの会社のこの等級ならこんなものだ」と言うものだ。評価者は個々のマネジャーだから、個々の人生観、価値観はどう異なっていてもかまわないが、この相場観はなるべく大きな差がないほうがよいに決まっている。が、最もスキル未熟な評価者は、そういうことをあまり顧慮しない。


たとえば野球ならば、最高年俸をもらうエースと、未勝利初出場の新人投手とでは、同じ先発ピッチャーを任されたとしても、責任、期待されるレベルがはるかに懸絶する。前者なら完投勝利を挙げて欲しいし、後者なら何とかゲームをこわさないように持ち味を出して欲しい、と言うくらい異なる。まさか初マウンドの新人が、いきなり快刀乱麻のピッチングができないからと言って、「あいつはだめだ、資質能力不足だ」とは誰も言わない。


■客観性、公平性確保のために上司に必要な自問自答


そんなことは当たり前ではないか、と自分とは別世界の事なら誰でもわかる。ところが自分の目の前のたとえば5等級の社員に、それがあてはまらなくなる上司がとたんに多くなるのはどうしてなのだろうか。少なからぬ上司が、部下の行動を感じたままに評価する。「この部下の行動は、当社の5等級として、ふつうだろうか、よいほうなのだろうか、たりないのだろうか」などとはあまり自問しないで、そのまま評価してしまうと言う意味である。「全社的絶対評価基準」「相場観」と言った意味がおわかりいただけたろうか。


こうした時、上司はむしろ情念の渦に巻き込まれていて、そのような冷静さを欠いていることが少なくない。たとえば手痛いロスをこうむった時に、「あの時、彼(その部下)がもっとがんばれば、あるいは深く注意していればこのような事にならずにすんだ」などと考えていることが多いと言うことだ。「彼の資格等級、キャリアから言ってそうしたことができたのだろうか。私はそれを期待するのが公平と言えるだろうか」などとは、あまり自問自答しない、と言う意味だ。人材活用の優れたマネジャーなら、なおこう自問するかも知れない。「そのような事柄は、管理職である自分自身が、先んじて彼に十分な注意を与えておくべき事柄ではなかったのか」。


極端に本質を突き詰めれば、評価要素と言うのは、そうした自問の1か条だけでよいのだ。「この部下の行動は、当社の〇等級として、ふつうだろうか、よいほうなのだろうか、たりないのだろうか」と。まあいくらなんでもそれでは、と言うことで、責任性、協調性から始まって数々の評価要素をつくる。だが、それらをどれだけ精密に定義づけても、この種の事は解決できるものではないし、やり過ぎると「複雑すぎてわからない」と言われてかえって混乱を招くのがオチである。成果主義の失敗例の多くはこれに属する。


上記の「相場観」は、書類の読み解きではなく、ここが肝心だが、同僚管理職との討議、対話の中でしか形成されえないものだ。そのためには討議されるケース、事例が適切でなければならないことは言うまでもない。その上で、同じ事例、行動を見たときに、ある人はAだと言い、他の人はBなりCなりだと言うのは、各人が、全社的でない自分だけの「相場観」──これは個人の「価値観」と言うべきものだろう──で評価しているからである。


価値観と言う言葉は、会社や個人の哲学を語る時には良い意味で使うのが普通である。その通りで、仕事そのものは、大いにおのおのの価値観で進めればいい。が、こと評価を公平に行わなければならない時に、個々人の価値観ほどじゃまになるものはない。


■個人的価値観と客観的相場観

  

以下のような人事考課研修中の討議を考えてみよう。

  

山田:「この人は、上司と約束したことができていないね。これじゃよい評価はつけられないよ。」

鈴木:「君ねえ、うちの会社の5等級だったら、このくらいできたら、まずはいったんよしとしなければ、先に進まないんじゃないの。」

山田:「だって目標設定で言ったことができていないではありませんか。」

鈴木:「だから、それは考えてみれば難し過ぎることを期待したのではないかな。」

山田:「そうかなあ・・・・・でも多少難しいとしたって、この人は大きく育つよう期待されてこれだけの役割を与えられ、やると自分で言ったのだから、もっとやって欲しいのよなあ。」

鈴木: 「まあ期待するレベルをどうするかは上司個々人の自由かもしれないが、今日は、まずは評価がどこが妥当かと言う話でしょう。」

山田:「あなたの部署の5等級は、こんなものですか。」

鈴木:「いや、恥ずかしいけどここまで行っていない人も少なくないですよ。だから、うちの会社の5等級なら、この例はまあがんばっているほうではありませんか・・・・・」

こんな討議を、具体的事例を置いて徹底的にやって欲しいわけだ。鈴木さんの最後の「うちの会社の5等級なら、この例はまあがんばっているほうではありませんか」と言うのが、本稿で言う全社的絶対考課基準へのアプローチである。考課者教育にあっては、せっかく忙しい管理職を集めるのだから、人事考課表の定義を読み上げ説明するのはほどほどにして、こうした討議が徹底的に行われるよう、設計運用することが何より大切である。


少しくらい難しくても期待されて担った役割ができなかったのだから、評価は低くても仕方ない、と言うのが、上述の個人的価値観である。その課題が、本人の資格等級を踏まえ、結果から見てどれほどの難しさやボリュームがあったかを判断するのが、全社的絶対考課基準であり客観的相場観である。


個人的価値観と客観的相場観が混同される典型が、上述会話のような、「評価と指導育成の混同」である。この二つをごちゃごちゃにしてしまうと、評価はたいてい客観的でも公平でもなくなる。せっかく預かった部下だ。誰だって情熱を傾け、大きく育って欲しいと思うだろう。それはよい上司たる必須要件でもある。しかしその指導育成上の理想水準レベルを評価基準にしてしまったら大変である。そういうものは、上司によってまったくばらばらなのだから、どれほど不公平なことになるかは容易にわかる。


だいたい資質有望な部下ほど試練を与えるのが普通であり、それは正しい。だが、同じ資格等級にいる同僚に比して評価基準までもそれにつれてどんどん高まるのでは部下もたまらないだろう。育成においては理想を追うのはよいが、評価は現実に基づくほうが妥当である。この区別とコントラストを微妙かつたくみに描けるのがすぐれた上司だと思う。

 


■「これだけがんばっとる人に」


先日ある会社から依頼を受けてつくった、被評価者が係長級の「オリジナルケーススタディ」を、さっそく管理職研修にて討議して頂いた。当然ながら当初の評価は一致しない。個々の評価要素ごとのすりあわせが続き、研修も後半になった。頃合いを見たように、ある課長が私に向かっていった。


「横山さん、うちの会社にこんなにがんばっとる係長なんておらへんと思います。そやから、私は、迷うことなくS(最高評価)をつけたのですが、横山さんは、このケースの作者としていかがですか。本当に、こんなにできるやつがうちの会社にふつうにおると思うてはりますか。」


研修所は東京だったが、この方は近畿地方からいらしたようだ。


「さて・・・・・部外者の私の思いはいったん置いて、討議してみてまわりの皆さんはどうでしたか。」


「いや、それが、私と同じでSの人もおったけど、合わせればAとBの人の方が多い。『あんたら、これだけがんばっとる人に、まだケチをつけとったら、うちの会社は若手が誰もおらんようになるか、反乱起こされまっせ』と言うたんですわ。」


「それで・・・・・」


「まあ、しかし、私の説得力が足らへんのか、グループ見解は結局Aに落ち着きました。『だいたいわしら(管理職)の中で、係長の時、これだけがんばれたやつがどこにおるのや』と言うたら、同じグループの田中さん(仮称)が、『あんた、それとこれとは別ですがな。昔は昔、今は今や。今の方が経営環境が厳しいんやから、部下への期待水準も昔より高うなるんはあたりまえやで。そのぶん、あいつらのほうがしっかり教育も何も受けとるんやから。』と言わはりました。先生、今日の勉強会、わしらはそんな意識でええんでしょうか。」


教室中が大笑いになった。

受講者であるこの方が、講師として締めくくるべき事柄も何割か話してくれたので、研修はとても参加型のポジティブな雰囲気のもとに終わった。この方の発言の冒頭のほうの、「うちの会社にこんなにがんばっとる係長なんておらへん」と言う考え方がここまで繰り返し述べてきた「全社的絶対考課基準」であり、「相場観」である。その水準を(この人の主張通りにはならなかったとしても)、管理職どうしで十分討議して妥当なコンセンサスを形成することは、人事考課者教育の最大の眼目である。こうした発言が受講者のほうから出てくる時は、評価スキルも相当習熟が進んで来ている証拠と言ってよい。


こうした大局的な見地を抜きにして、被評価者の部分部分の個の行動を、いきなり評価表の細部の定義と照らし合わせる作業をすると、たいていは妥当な結果にならないものである。評価はマネジメント上の判断であり、科学的機器による実験測定ではない、と私はこの仕事に就いてからずっと言い続けてきた。人事考課力はマネジメント能力であり、とくに判断力である。こうした大局的相場観を養うには、繰り返すが、同じ会社の管理職どうしで討議をするしかないのである。


こうした、マネジメント能力、判断力の本質は、そうした対話を通じて本人が体得するしかなく、紙に書かれた判断力の定義や絶対考課基準を丸暗記したところでそのマネジャーの評価能力はさして高まらない。繰り返すが、それは書き文字からは決して伝わらない内容だからだ。当の管理職達自身が、経営環境の変化に合わせ、いつも深く考え、探り当てていなければならない実感としての基準である。だから時々討議をして発見しなおし認識を深め、共有の暗黙知にするしかないのだ。人事考課者教育を、何年かに一度などと定例的に行う会社が多くなったのは、このあたりに本質的意義を見出している。


そこにはキャリア豊富なマネジャー同士の暗黙知と呼んでもよい評価基準のエッセンスが積み上げられる。そうした全社的絶対考課基準は、現時点において未成熟なマネジャーが視野を広げる最高の教材である。もちろんふだんからそのように視野を広げる努力はもちろんしたほうがよい。が、日常お忙しいからなかなかその気になってもらえない。そういう方はたいてい「そんなよけいなことをいちいち考えていたら、いつまでたっても評価が終わらないし、時間がかかってしかたがない」と思っているからである。そういう意味で、適切なケーススタディを用いた考課者研修は、そうした公正な評価判断基準形成の必要性を痛感する良い契機となる意味が大きい。



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