実戦問答No.16


セッションにおけるメンバーの同意~アクションラーニングは誰のためのものか~

(2011.06.09)

このところ、アクションラーニングのコーチをしている方々から、「問題再定義」「行動計画」などで、どうしたらじょうずにメンバーの同意が取れるのだろうかと言う質問が重なった。

私はそうしたことでほとんど悩んだことがない。それは私がコーチとしての技量が優れているからではなく、セッションを行うときのメンバーに恵まれているからである。「同意を取る」と言うとひどくおおげさに聞こえるが、そもそも、セッッションが始まってたとえば1時間も経過して、メンバー間に問題が深く共有されていないとすれば、そのこと自体が大いに問題であり、コーチの技量が問われる。私は「このままでは所定時間に問題の本質の共有が十分に進まない」と判断したときは、コーチは、ファシリテーションだけでなく、メンバー代行になって、局面の途中からどのメンバーよりもじょうずに質問ができなければならないと言う立場を取っている。だから共有が進まないのはコーチの責任なのだ。

コーチが自ら質問をするのがよいとか悪いとかそう言う議論が好きな人もいる。が、申し訳ないがはっきり言って浮き世離れした論議である。研修を主催し、私のような外部コーチを呼ぶ組織の側から見たら、この当否は明白過ぎる。問題解決も進まず、学びもふり返りも、そして問題の共有も欠いたセッションとなり、その理由は「集まったメンバーがf現時点ではそこまでしかできなかったからです」などと言うのでは、全くの無為であり責任放棄である。こうした時は、コーチ自身がどのメンバーより、問題提示者の問題の中に深く入り込める質問ができなければならない。必要な時にそれができないのでは、司会者ではあってもアクションラーニングコーチとしての最も重要な要件を欠いている。以上は、社員の貴重な時間を費やす以上、社内コーチでも基本的には同じである。

もちろん、私が行っている場合でも、問題の再定義の表現は、メンバーが違えば皆違う。実際には、現役のマネジャーやそれに準じる方々とアクションラーニングを行うときには、私は、それら全部を聞いて、本質において大差ないと思えば「問題は共有できましたね」と聞く。まずめったに不同意は出ない。と言うより問題の本質が共有されている雰囲気がなければ、時間が来たからと言って機械的に「問題再定義を書いてください」とは言わない。では時間がいくらあっても足りないかと言うと、私の場合は、たいてい丸1日、2日と研修で時間をお預かりしているから、内容が複雑なセッションもあるし、それほどでもないものもあるから、柔軟に調節している。今日1回だけで2度と行わないセッションで、時間が限られており、おそろしく問題が複雑だと言うときは確かに難しい。コーチも渾身の集中力で運営しなければならない。が、私は基本的にあまりそうしたことは引き受けない。1日研修に費やせない場合なら1カ月置きか2カ月置きか、最低何度か同じメンバーでセッションを行うようにしているのである。だからやはり調節はできる。以上は例外を言い過ぎたようだ。ほとんどの場合、所定時間内で共有はできる。

拙著「アクションラーニング実戦術」にも書いたが、だいたい「不同意」が乱発するのは、「自己愛メンバー」が多いときである。自分が一生懸命質問したり、意見を言ったことが、問題提示者の再定義表現に反映されていないと、面白くないから、やたらと不同意と言う。もっとはっきり言おう。こう言う現象は、会社外の専門家にしかまず起きない。この情景も、偉大なアクションラーニングの創始者レグ・レバンスのテキストに書いてある通りである。自分のプライドにかけても「不同意」というわけだ。そして私も、自分のクライアントでななく、偶然呼ばれた場でこう言うシーンに遭遇してしまうと、口には出さないが、「なんとまあむだなことに労力をかけるのだろうか。セッションに許された時間は本当に貴重なのに」と天を仰ぎたくなる。

時間がむだになるだけならまだいい。取り返しがつかないロスも生じる。問題提示者は、さすがにそこまでのプロセスで、いろいろ深くふり返ることができていることが多い。だが、この再定義の表現があっているあっていないと言うつまらない問答を繰り返すうちに、そのせっかくのふり返りがどこかに消えてしまうのである。それはそうだろう、共有してもらっていると思っていたメンバーから「あなたの再定義はわからない」と続けざまに言われるのだから。輝きかかっていた本人の表情が、セッション開始時点の曇った迷いの表情にみるみる戻ってしまう。これは本当に残念なことだ。だから時間がむだになり、しかも残念な思いをするので、極力そうした専門家の方々とのアクションラーニングセッションにはおつきあいしないようにしている。

ひるがえって、日々、繁忙の実戦の中にいるマネジャーやその候補者達は、中身が的が当たっているのに、いちいち表現の違いを言い立てて同意だの不同意だのと言うほどひまな人などはいないのだ。たまには、プライドではなくて、性格的にそういうことが気になってしかたのない人もいる。他のメンバーに「そんな細かいことにこだわって困ったものだ」と言う表情をされたり、時には「おまえ、もういいだろう」と友情を込めて苦笑失笑されるから、言った人も気づき、場はもとどおり支援や学びに満ちた雰囲気にすぐ戻れるのである。私はメンバーに恵まれていると最初に言ったのはこの意である。上記のような専門家たちのほとんどは、こうした現実の実戦が問われるセッションに漬かったことがないのだ。それは申し訳ないが、ひとめでわかる。そして、どうでもよいことをいつまでも言っていたら、1日だって現実世界のマネジャーは相手にしてくれないのだ。

本当に問題提示者本人が、いわば勘違いをしたまま再定義場面を迎えることは絶対にないとは言わない。が、100セッション行って、2、3度ではないか。逆にそうした時には、メンバーは、堂々と不同意を伝えればいいし、コーチも何も調節する必要はない。それで大いに本人は良い意味でショックを受け、勉強になるからである。

めいめいの組織外の専門家が、どのような主張をしようとその人の自由だから、私がとやかく言う気は全くない。が、困るのは、そうした方々が、これから社内コーチをやろうと言う人に、再定義場面などは、些細なことでも納得がゆかなければ、どしどし不同意を出せばよいと教えてしまうことである。だから冒頭の質問につながる。

こうした考えは、アクションラーニングの本質を見失っている。アクションラーニングは問題提示者への支援が第一の果たすべき機能だ。それでは不足だと言う「専門家」もいるし、もちろん発展的にはその先(チームビルディング、組織風土改革など)があってよいのはもちんだ。が、「その先」はこの入り口を経ない限り絶対にやって来ない。すぐ「その先」を言いたがる「専門家」ほど、この入り口を、コーチとして技術的にしっかりできているかと言うと疑問である。

その第一の機能に照らしたとき、問題提示者の再定義の表現が、あるメンバーにとって気に入るか気に入らないかなどは、事の本質と何も関係ない。本人がどうやら問題の本質にゆきつき、解決への勇気ある一歩を踏み出しそうなら、表現が何であれ「同意」をする。これがまともなオトナの支援の態度である。逆に言えば、そうした雰囲気をつくりだすのがアクションラーニングコーチの大切な役割なのだ。

偉大なレバンスのテキストには、そのようなマネジャー達の態度に、「sober」「deliberative」などの単語をあてた表現が折々用いられる。「sober」の原義はお酒を飲んでいない「しらふ」であり、落ち着いた冷静な様子を指している。「deliberative」は思慮に富んだと言うことだろう。日本航空の会長になった稲盛和夫氏は日本人で現役最高の経歴を持った経営者だろう。そのご壮年期の迫力あるご著書は私も随分読ませて頂いたが、そこには氏の人材を見る価値観として、しばしば「深沈重厚、これ第一等の才」と言う中国の明の末期の、呂新吾の言葉が引用されていた。すぐれたマネジメント行動と言うのは、洋の東西とはあまり関係ないらしい。

私は言いたい。アクションラーニングとは日々の実戦の中に過ごすマネジャー、組織人たちのものである。行動科学者や会社の中のことをよくわかろうとしない外部コーチ達のためにあるのではない。頭の中でこね上げた鋳型に、マネジャーたちをはめこむのではなく、厳しい実戦の方に、私たちが合わせてゆかなければ、アクションラーニングは真の効果を発揮し得ない。



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