その26:マネジメント能力要件からみる平清盛 その2

さて平治の乱を乗り切ってしばらくの間、御所の内で、清盛は「あなたこなたしける平中納言殿」とあだ名された。つまり、院、朝廷、公卿のあちこちに気を回し、いっしょうけんめい政治的調整を図る日々が続いた。そしてどんどん位階は出世した。やはり「柔軟性」、そして「活動性」が相当高いとみて間違いない。あたかも平治の乱後は、清盛は独裁権力を得たかのように言われる時があるが、それは全く後世のイメージから来た錯覚である。せっせと二条天皇、そして天皇崩御ののちは「治天の君」となった後白河上皇に、こまめに奉仕した。この柔軟性は「組織感覚」と言い換えてもよい。

 

ところで、十訓抄(じっきんしょう)に出てくる清盛の有名な逸話がある。朝早く目覚めたら、宿直(とのい)の郎党がうたた寝をしている。清盛は、彼を起こさないようにそっと寝室を立った。武家の棟梁の護衛である。普通なら手打ちにされるか少なくとも殴打されてもよい場面である。このように、弟、子息、郎党ら一門の人々をことのほかかわいがった様子は随所に伺える。彼のいちばんの持ち味は実はこうした「感受性」のようである。

 

ブログに以前書いたが、後に平氏の棟梁を継ぐ次男宗盛は、武将としてはことのほか不決断な人物で、実は出入りの職人の子を、男の子に恵まれない正室時子がもらいうけてきたのだと言う風聞が当時からあった。これを聞くや清盛は、宗盛は間違いなく自分の子であり、そうした風聞を語る者は以後厳しく罰すると言った。これも深い「感受性」であるし、ここまでくれば「統率力」でもある。

 

多くの弟や血縁者を次々殺していった頼朝と較べると違いがよくわかる。

宋との貿易により巨利を得ようとしたのは、門閥貴族にはない「積極性」「計画組織力」が見て取れよう。これも若き日に海賊討伐を進め、西国の国司、要職を兼ねた頃からずっと積み上げて進めて来たものであり、営々と今の神戸港を開き、福原の新都を建設した。「統制力」「活動性」もまず高い。清盛の活動性は、源氏武者と違って、戦働きよりもこうした面に出る。まさに脂がのりきった。

 

さて、あなたこなたして一門の春を築いたが、そのおこぼれに預かれない側には不満と嫉妬が宮中に黒く渦まいた。1177年、後白河法皇も加わった平氏転覆の密謀が発覚した。鹿ヶ谷の変である。今回も、こうした陰謀がだいぶ進んでから知るなど、やはりリスク感知と言う面においての「判断力」は弱点なのだろう。と言うことは、存外にお人好しで人を信頼するたちであったと言うことでもある。特に後白河法皇には、「これほどお尽くし申し上げてきたのに」と、本当に悔しかった。怒りのあまり法皇を幽閉しようとした。これを諫めたのは、この時既に家督を継いでいた嫡男重盛と言われる。

 

この時の親子の対面は、平家物語の中でも最も有名な場面のひとつである。法皇の身柄にまで事が及ぶのを見過ごすことは、「親(清盛)に孝ならんとすれば君(法皇)に忠ならず、君に忠ならんとすれば親に孝ならず」と名句を吐き「かくてそれがしの進退はきわまった」と重盛は涙ながらに父の暴挙を諫めた。最後にはどうしても法皇を押し込めると言うなら「この重盛の首をはねてから父上のお好きになさればよい」と言った。清盛は屈せざるをえない。

 

どうも義母、池禅尼に頼朝助命を迫られた時と言い、このたびと言い、まなじりを決して迫る相手に困惑しかねて「わかった、もうよい」と言わされる場面がこの人の生涯には多い。活力旺盛で頼もしい棟梁だが、一族へのごく凡夫らしい情愛からつい失敗をする。このたびも武士の権力の構築と言う面から見れば不徹底な行動に終わった。「決断力」がやはり得意とは言えないのである。後白河法皇の平氏に対する行動は、平氏に支えられた院政を維持してきた前後関係から公平に見て、とうていほめられたものではない。

 

実際、この会話の40年数年後、やはり乱を起こした後鳥羽上皇(後白河法皇の孫)を、鎌倉幕府が隠岐島に流して生涯ついに都に戻さなかったことを不敬のきわみと言って批判する人はむしろ少ないだろう。そうしたバランスを見ないで清盛の意図や行動を評するのは不公平であろう。

 

こうした平家物語の会話内容の史実性の程度の検証は学者の範疇として、ここではっきりわかることは、息子重盛のほうがずっと雄弁で態度が立派であったことだ。清盛はどちらかと言えば、言説が非論理的で一貫しない。つまり「コミュニケーション能力」や「説得力」は息子の方が上だった。しかし、事件処理の全体を通じての政治的着眼は、清盛の方がずっと現実的で、つまり「判断力」は父の方が上だったと私は思う。重盛の言動は、文学的には立派でも、何千何万の一族郎党の命を預かる者の判断とは言い得ない。今風に言えば「ひとりええかっこしい」と言うものに見えるがどうだろうか。

 

しかし清盛は、けむたいながらもこのしっかり息子を頼りにしていたことは間違いない。その重盛は2年後に親より先に亡くなる。その後さらに後白河法皇に、政治的に冷酷な仕打ちを続けざまに受けて怒り狂った清盛は、ついに法皇を幽閉する。これは、一般に暴挙とされるが、評価はさほど単純にはできないのは上述の通りだ。武士の至高権力を普遍的に確立する結果が伴えば、たいへん優れた「判断力」、「決断力」だった言われたのだろう。しかしまたしても不徹底だった。

 

そして誰しも免れ得ない老耄の陰が深く差し込んできた。娘徳子の産んだ幼児の安徳天皇を立てて溺愛し、一門だけで高位高官を独占して、相当独善的な印象が濃くなっていった。こうした晩年には、上述のこまやかな「感受性」ははげ落ちていってしまったようだ。そして、藤原摂関家のように、結局はあくまで朝廷内部に自らの権威と勢力を保持しようとした点においては「独自性」(自主独立性)が頼朝より劣ると言うのは、しばしば言われるところである。

赤直垂(あかひたたれ)の禿(かむろ)と言うわらべを京の街々に放ち、平氏の悪口を言う者をいちいち捕え、その居宅を打ち壊したりしたのは、壮年期までの彼には考えられないような「柔軟性」「感受性」の喪失である。こうして平氏の繁栄にのみ心を奪われて地方武士の利害をすっかり忘れ、「統率力」はみるみる失われた。

 

1180年、頼朝を含む各地の反平氏勢力が旗揚げをする。手を焼いた清盛は、その年の暮れ、近畿の反対勢力の代表でもあった南都(奈良)の寺院に攻撃をかけた。折からの冬の季節風にあおられ、聖武天皇の天平の御世以来の東大寺大仏殿を始めとする、多くの大寺院の伽藍が焼け落ちてしまった。むろん僧俗の死者無数である。直接攻撃をしたのは、清盛の四男重衡である。が、攻撃命令はむろん清盛がくだした。凱旋した重衡に「大仏殿までは焼かずに賊徒をこらしめることはできなかったのか」と益のないくりごとを言ったようだ。こうした事後評価は今日のまずい人事考課といっしょで、まったく「説得力」を欠く。

 

この一挙は、当時においては巨大であった寺社勢力と2度と妥協できない関係に陥ることとなり、このばくぜんとした南都攻撃命令においては、若き日に調整の人だったことが信じられないくらい情勢に対する「分析力」やそれに基づく「計画組織力」が落ち込んでしまった。老いが深い。「人をやたらと殺傷せず名刹伽藍には火をかけるな」と言うなら、若い重衡には当初から厳命しておかなければならなかった。あの飛鳥時代の蘇我入鹿ですら、聖徳太子の嫡男山背大兄皇子を討ち果たした時に、兵達に法隆寺にだけは指一本触れさせなかったのだ。

 

清盛が急病に倒れ亡くなるのは、この2か月あまりのちである。平氏の滅亡を見ずに黄泉路に旅立てたのはまだしもの幸運であろうか。

 

以上が、清盛の世人に広く知られた事蹟、行動に基づく私流のアセスメントである。アセスメントの全体像の半分である行動の評価の面を、てっとり早くご理解頂くため、このような稿を著した(もう半分は、自分で気づいて動機づけ、行動を変えることである)。

 

人生の時期によって異なるとしても、総括すれば、清盛の強みは、判断力、柔軟性、感受性であり、弱みは、決断力、説得力、ストレス耐性と言ってよいだろう。読者のご意見があればお伺いしたい。

 


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