その23:ふたたび、性格と行動の区別

2012.01.26)

■ふたたび、性格と行動の区別


少々閑話休題をゆるされたい。

 

前々回、性格と取るべき役割行動が混同されることは、マネジメント上、なるべく避けた方がよい旨を書いた。日本の歴史の中で、この面の最大の失敗をしたのが、今年の大河ドラマの主人公である平清盛であったことを思い出した。今テレビで放映されている清盛像は、まるでのちの織田信長や豊臣秀吉のような武士による天下取りの先駆者であるがごとく、勇ましく、行動的で、実に荒々しい。清盛は後の言葉で言う統一された天下取りを指向したことなどなかったろう。院、朝廷、摂関家、有力寺社、力量ある地方武士、宋の大商人等の一切の重要関係者とうまくやってゆく中で平氏がイニシアティブを取りたかったのだと考えられる。中世と言うのはこうした混沌、多元、多層が特色で、ある面ではむしろ戦国期より今日のマネジメント状況に類似する。  

 

まあ、ドラマのストーリーは脚本家の自由だから置いておくとして、史家の論ずるところの共通項の清盛は、そのように、慎重で熟慮に富み(つまり勇敢とは言えない)、バランスの取れた判断をする一方で、しっかり物事を積み上げてゆく人物であったとされる。もっとも、藤原氏と同様、安徳天皇の外戚となった晩年の清盛には以上の評は少しあてはまらなくなっているかもしれないが。

 

つまり、何事も力づくでの解決を図り柔軟性の足りないライバル源義朝などに比したとき、今日ふうな意味でもマネジメント能力がとても優れていたと言ってよいと思う。その清盛の最大の失敗が、平治の乱(1159年)で勝利した後、敵将義朝の嫡男頼朝の命を助けたことであるとしばしば言われる。のちに頼朝が平氏を滅ぼすことになったのは言うまでもない。

 

この助命の経緯も、実に謎めかしく、このあと大河ドラマがどう描くか楽しみではある。が、大失敗を論じる前に、清盛が、かなりきわどい窮境であった平治の乱で勝ち抜けたのは、彼の政治力、マネジメント能力に負っている面がとても大きいことを見逃してはならないだろう。何しろ大きく先手を取られて、御所と天皇、上皇を先に義朝側におさえられてから、策と手順を尽くしての逆転勝利であったのだ。

 

だから、戦いが終わって捕らえられた頼朝を当然斬るつもりでいただろう。それは当時の価値観として非情とかそう言うことではなく、ごくあたりまえなことだった。しかし、物語によると、ここで清盛の継母つまり亡父忠盛の後妻の池禅尼(いけのぜんに)が、頼朝を見て「自分が産んだ亡き一子とよく似ているから、供養と思いどうか助けてやっておくれ。」と言ったことになっている。その一子は、清盛にとっては母違いの弟にあたり、亡父もこの弟をとても愛しかわいがっていた。生きていれば、どちらが総領になったかわからなかったと言われる。むろん清盛は、「母上、武門の子は長じれば仇をなします。怖いものですよ」と言ってとりあおうとはしなかった。ところが、池禅尼はヒステリーを起こし叫んだ。「清盛殿は継母だと思って、わたしを軽んずるのですね。ああ、亡き殿(忠盛)がおわせばこのようなはずかしめは受けぬものを。」と袖を濡らせてわんわん泣き出したからたまらない。手に負えなくなってしまった。

 

そして結局、頼朝を助命した。「こどもひとり助けたところでさしたることもあるまい。継母の願いを無視して、14才のわっぱを斬ったのでは、世の聞こえも悪かろう」と自分に言い聞かせた。こうした家族、一族郎党との情実、恩愛を大切にし、世間の風評をしっかり気にかけるのが、源氏一族にはない清盛の大きな長所とされる。他方、現代の価値観に照らして古代中世の人物の行動を評することもまたあまり適切ではないかもしれない。清盛の平安末期の「マネジメント」としての立場と役割は、ヒューマニズムや博愛社会の実現ではなく、どこまでいっても平氏一門の繁栄とそれを通じた朝廷と世の平穏安定だったはずである。鴨川原や羅生門に餓死者や行き倒れ人が累々重なっていたこの時代、それが精一杯だ。しかし、こどもひとり助けたために、20数年後、彼の妻、子息、その他の多くの一族は、一ノ谷や屋島で討たれて散り、最後はことごとく壇の浦の藻屑となって滅び海底に沈んだ。

 

そう言う意味では、一代の意思決定を間違えた。あるいは正しい判断(頼朝を斬る)にいったん至りながら、継母の反対と言うきわめて家族的な理由で決断がつかなかった。つまり彼の優しい性格、好戦的ではない穏やかな人柄が、この場合、当時の武士としはごく普通の措置を取らせなかった。現に、清盛の轍を踏むまいと、酷薄な話だが、このあと敵将の忘れ形見を許した武将など誰もいない。

 

こうした清盛の性格には、私を含め、あたたかみを感じる人は多いだろう。なかなか性格と行動を区別するのは難しいことだ。そしてこうした運命の岐路ともなるような場面で、いっそう、人の性格と言うものは表面に出てくるからやっかいである。

 

六波羅に行くと今でも「池殿」と言う町名がある。池殿とはこの池禅尼のことである。きっと清盛が彼女のために建てた亭があったのだろう。800年を経て地名に残ると言うことは、やはりそれなりに立派な屋敷だったに違いない。継母思いな、あるいは浮世の当然の情義として、亡父の愛した後妻に礼を尽くした清盛であったようである。

 


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